歴史

小松帯刀(清廉・尚五郎)とは?その経歴・生涯・死因!

小松帯刀(清廉・尚五郎)は、現在の揖宿郡喜入周辺の領主として島津家に仕える肝付兼善の3男・肝付兼尚五郎として生まれ、後に肝付兼戈と改名しています。

幕末維新の三傑や西郷どんとして今も親しまれている西郷隆盛や大久保利通共に薩摩藩を支えた名宰相として坂本龍馬に賞賛されているだけで無く、1867年に薩摩藩及び長州藩に下された江戸幕府第15代将軍徳川慶喜の討伐及び会津藩主松平容保と桑名藩主松平定敬の誅戮の詔書とされる討幕の密勅に西郷隆盛や大久保利通、長州藩の品川弥二郎や福田侠平等と共に請書を提出したとされ、幕末維新の十傑に数えられています。

小松帯刀(清廉・尚五郎)は、西郷隆盛の征韓論に意を唱えて世を去った横山安武の父で儒学者の横山安容や歌道御用掛を務めた八田知紀、示現流3代目東郷重利などに師事した事から文武に秀でていたとされる一方で、第26代当主島津斉宣の家老秩父季保の愛読書近思録の理解を深める名目で西郷隆盛や大久保利通等によって結成された誠忠組との交流を深め、百姓や町人とも気さくに付き合ったとされています。

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小松帯刀(清廉・尚五郎)と篤姫


1855年21歳の時に五摂家筆頭近衛家から第13代将軍徳川家定の御台所となった篤姫のいる江戸で奥小姓近習番に任じられています。

篤姫の実兄と共に学んだ記録は残されていますが、大河ドラマの様な小松帯刀と篤姫の関係を裏付ける文献は発見されていないのが現状です。

22歳の時に現在の鹿児島県日置市の西部に位置する吉利の小松清猷の跡目養子として吉利領主小松家の家督を継承し、24歳の時に兼戈から帯刀清廉と改名しています。

28歳の時には、第29代当主島津久光の上洛及び一橋慶喜を将軍後見職に任じる勅旨護衛の随行後側詰兼家老に就任すると共に、第28代当主島津斉彬の没後縮小傾向にあった製鉄や造船及び武器の製造などの西洋式産業の拡大を推進する集成館の管理を任されます。

薩英戦争敗戦以降は尚古集成館の建築や鉄鋼職人の招聘などにより集成館を再興すると共に英国と講和を締結し、武器商人のグラバーから武器や軍船などの購入を交え西洋文化の導入に拍車を掛けたとされています。

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小松帯刀(清廉・尚五郎)と坂本龍馬


また、小松帯刀(清廉・尚五郎)は、寺田屋事件以降の坂本龍馬の療養や日本初とされる新婚旅行の準備、亀山社中設立援助を行ったとされています。

禁門の変では、西郷隆盛等と共に京都御所の守護を担い、京都守護職の会津藩藩主松平容保率いる幕府軍と共に長州藩を撃退していますが、翌年の1865年には松下村塾出身の家老周布政之助や桂小五郎及び久坂玄端が秘密裏に英国に留学させた井上馨と伊藤博文と会談し、薩摩で大久保利通や西南戦争に従軍し西郷隆盛と共に戦った桂久武、島津久光の側近とされる伊地知貞馨と伊藤博文を引き合わせ、薩長同盟の下地を整えたとされています。

1866年には、同志社大学のキャンパス内にあったとされる二本松薩摩藩邸で長州藩の木戸孝充と小松帯刀及び西郷隆盛が会談し、現在の京都市上京区の森之木町周辺にあったとされ御花畑とも呼ばれた京都小松帯刀邸で全6条の薩長同盟が締結されています。

小松帯刀(清廉・尚五郎)は、薩長同盟を締結した翌年の1867年には城代家老に就任し、薩長同盟に続き薩土同盟を坂本龍馬や中岡慎太郎、板垣退助と共に締結させ二条城行われた大政奉還に列席しています。

しかし、生来の虚弱体質に加え1860年頃から足の病の治療を受けていた事から鳥羽伏見の戦いや江戸城の無血開城、戊辰戦争などに立ち会う事が出来なかっとも言われています。

明治新政府で徴士参与や外国事務局判事、玄藩頭、外国官副知事等の要職に就任及び兼務しますが、後世に死因が伝えられる事なく享年36歳の若さで亡くなっています。

没後には、小松帯刀(清廉・尚五郎)の生前の功績に対して従四位の官位が追贈されています。

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