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軍師リュ ソンリョン~懲毖録(ジンビロク)豊臣秀吉の壬辰倭乱に翻弄された時代背景

リュ・ソンリョンは、1592年から休戦時期を挟み1598年の太閤豊臣秀吉の死まで行われた文禄・慶長の役とも呼ばれる壬辰倭乱で李氏朝鮮王国を指導した左議政かつ功臣二等・豊原府院です。

事あるごとに反対勢力北人派の讒言や策略にはまり1604年以降隠居し1607年に亡くなっています。

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軍師リュ・ソンリョン(柳成龍)の父柳仲郢

彼は、1542年に現在の韓国慶尚北道義城郡に相当する慶尚道義城で柳仲郢の次男として誕生し、李氏朝鮮第13代明宗の治世1545年に発生した「乙巳士禍」で失脚した二大儒と称される李滉に師事し科挙に合格しました。

柳仲郢は、第11代中宗の治世時に知成均敎授に任命されるとともに黄州・常駐・洋酒・安東の訓導を務め慶尚道義城地方の教育に貢献した人物であり、リュソンリョンが7歳の1549年には現在の行政事務の各部の課長に相当する正六品の佐郎となった人物です。

柳仲郢は、1564年に黄海道地域の観察使として国境地域の密輸を厳しく取り締まり、地域の産業を奨励した治績が宣祖にも認められた有能な官吏でした。

府院君は、文永の役・弘安の役を元に進言した第25代高麗王忠景孝大王以降の高麗や李氏朝鮮で使用された爵位であり、王后の父親である国舅や功臣に与えられていました。

功臣では、李氏朝鮮の開国功臣かつ新羅智証王時代に中国から新羅に渡来した呉瞻を先祖とする呉思忠の寧城府院君や李氏朝鮮最初期の重臣李茂芳の光陽府院君が有名です。

乙巳士禍は、第13代明宗の生母にして第11代中宗の3人目の王妃であったことから絶大の権力を握っており、即位から僅か8カ月崩御した第12代仁宗を推戴する大伊派と第13代明宗を推戴する小伊派の間で行われた内乱であるとともに士禍が1567年まで続きました。

また、彼が科挙に合格した時代には1559年〜1562年まで林巨正の乱と呼ばれる民衆反乱が黄海道で発生し、李朝功臣の末裔を主要メンバーとする勲旧派から新進儒学者を主要メンバーとする士林派へと朝廷の指導権が移動するきっかけとなりました。

士林派は、林巨正の乱と第14代宣宗の即位で政権の樹立を成し遂げましたが、金孝元派の東人と相反する沈義謙派の西人の対立が激化します。

リュソンリョンは、東人の中でも師である李滉の学説を支持する主理派に属し、東人の分裂後には南人に属します。

林巨正は、酷い迫害を受ける賎民の代表とされる白丁の出身とされたことから韓国の義賊「洪吉童」のモデルであり、洪吉童は日本国内の桃太郎や金太郎に相当する韓国のおとぎ話のヒーローです。

科挙合格後のリュ・ソンリョンは、下級機構の参外書記である承文院権知正字や実録編纂を主管業務とする行政機関の春秋館記事官及び典籍・工曹佐郎を経て、1590年に朝鮮政府序列四位一体の序列3位に相当する右議政に任じられます。

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豊臣秀吉と軍師リュ ソンリョン(柳成龍)

最終的には、朝鮮政府序列四位一体の序列1位に相当する領議政に任命されますが、敵対している北人勢力に豊臣秀吉が引き起こした壬辰の倭乱の一切の責任を負わされて任命されたその日に罷免されました。

彼は、東人派分裂後第14代宣祖を推戴した南人派を率いていましたが、壬辰倭乱の際に宣祖は現在のソウルにあたる首都漢城府を捨てて北朝鮮南部の開城に落ち延びる一方で民衆から蔑視と罵声を浴びせられてしまいました。

壬辰倭乱は、明国の援軍の到着により平壌や開城を奪回して終結し、豊臣秀吉連合軍と明国の間で講和交渉が行われました。

しかし、朝鮮南部四道の割譲が決まるなど李氏朝鮮の知らぬところで講和が進められ、宣祖と宣祖を推戴する南人派の求心力が急激に低下してしまいました。

反して光海君は、壬辰倭乱の勃発に際し気性が激しく私生活にも問題を抱えていた長男の臨海君に変わって王世子として豊臣秀吉連合軍に勇敢に挑み民衆を救ったことに加え、戦後も父王に変わって国内復興に尽力したことから北人の大北派が朝廷の実権を次第に手に入れ行きます。

大北派は、光海君を推戴していることから豊臣秀吉の死で終結する文禄の役で派閥の将兵が活躍したこともあり、1602年に和議を強硬に主張したリュ・ソンリョンは戦後老荘と呼ばれるベテラン官僚が中心の大北派から弾劾を受けて失脚しました。

彼の死に間際には、第14代宣祖の継室仁穆王后が嫡流の後継者永昌大君が誕生したことから永昌大君を推戴する小北派と大北派の対立が激化し、彼が亡くなって数カ月後に宣祖が崩御すると光海君が即位を契機に敵対していた小北派とともに南人派も粛清や追放されました。

リュ・ソンリョンは、教育に熱心であった父柳仲郢や李滉と同様に優秀な学者でありながら党利党略に囚われない清貧な行政官であり、戦乱時には朝鮮軍を軍師として指揮して豊臣軍と対峙していく傑物でした。

また、軍隊養成のため訓錬都監の新設に伴い李舜臣や権慄などの勇猛で優秀な将軍を登用し、銃器や防衛線の強化など軍事にも比類なき才能を発揮しました。

故郷安東に隠棲後は、壬辰倭乱と丁酉倭乱の李氏朝鮮側の経緯を記述した懲抗録を1598年に執筆し、後世への戒めとした不遇の人物です。

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