直江兼続は戦国時代に活躍した武将です。
上杉景勝に仕えました。大河ドラマ天地人にも描かれて人気ともなりました。
愛の兜が有名です。愛という漢字がそのまま兜に使われているのですが、この愛の漢字は人を愛するという意味での漢字ではなく、愛染明王の愛だと言われています。
つまり、宗教的に意味合いがあったということです。
そういう意味では徳川家康が旗印にしていた厭離穢土欣求浄土の旗印と似たような意味合いということがいえるかもしれません。
戦国時代は命をかけて戦う時代でしたから、多くの戦国武将は自分の命をかけるものをさまざまな信仰としてそれを兜や旗印に表現していました。
漢字を兜につけていた人は珍しいかもしれませんが、主の上杉景勝の父である上杉謙信も毘沙門天の毘の文字を旗印として使用したりしていましたから、家風としてこうしたことをする考え方があったのかもしれません。
若しくは上杉謙信にちなんで自分のアイデンティティーを出そうとしたのかもしれません。
直江兼続の直江状
直江兼続は世にいう直江状でも有名です。
これは徳川家康にあてて送った書状です。
当時は前後苦を統一して天下を治めた豊臣秀吉が死亡して、戦国時代に逆戻りするかもしれないという状況かにありました。
そのような時に次の天下取りを目指して動き始めたのが徳川家康です。
当時の徳川家康は豊臣家の家臣筆頭という立場にあり、五大老という役職の筆頭でした。
直江兼続の主の上杉景勝はこの五大老の四番目から五番目というような立場でしたから、家康と同格とはいえ、少し劣る立場ではあったわけです。
ただ、二人とも豊臣の家臣という立場は同じです。
でから、この二人が争うということは豊臣の臣下の争いということになっていたわけです。
そうした時に家康が景勝に難題を吹っかけてきたのです。
上杉家のごたごたで本国に戻った景勝に対して家康が詰問状を送って上洛を促すようなことをしたので、これに対して反論をしたのが、この直江状といわれるものです。この書状はあまりにも長い書状だったようです。
原本は発見されてはいないようですが、なんと5メートルを超えるものだったということです。
これだけ長いと読むだけでもたいへんです。
家康はこの書状の内容にも怒ったかもしれませんが、この長さにも怒ったのかもしれません。これだけ長いと書状というよりは本といったほうがいいかもしれません。
上洛しないという弁明にこれだけの文書を書くというのはそれだけでも驚きです。
弁明がしたかったということもあるのかもしれませんが、なにより非は家康にあるということを言いたかったのでしょう。
ただ、これが家康の怒りに火をつけて上杉を攻めるという決断をさせることになったともいわれています。
これだけの影響力のある書状を当主の景勝ではなく直江兼続がしたためたというところがまた面白いところでもあります。
この書状が上杉家の運命を握るようなことになることは、書状の内容を見れば明らかですから、それを家臣の名前で書かせる景勝と兼続との関係性も面白いものがあります。
かなりの信頼される家臣になっていたということは間違いないでしょう。
直江兼続は越後の上田庄生まれ
直江兼続は越後の上田庄で生まれたとされています。
ただ、その生誕にはあまり信憑性のある説があるわけではなく、かなり曖昧で確実性はないようです。
木曾義仲の重臣、今井兼平の兄弟だった樋口兼光の子孫であった樋口兼豊の子として産まれたといわれるものが有力なようですが、これもかなり信憑性は薄いようです。
なぜ景勝に仕えるようになったのかというところもよく分かっていません。
ただ、上杉謙信の後継者争いとなった「御館の乱」では戦後処理に活動している資料があるので、この頃には景勝の下で働いていることが分かっています。