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神戸湊川神社の歴史

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兵庫県神戸市中央区に位置する神社である神戸湊川神社は、楠公さんと言う相性で親しまれている歴史のある神社です。

国の重要文化財として指定されている段威腹巻や楠公が自らしたためた紙本墨書法華経奥書などの宝物も多く現存しており、神社自体は国の史跡としても認定されています。

楠公と言うのは1300年代に活躍していた武将・楠木正成の愛称で、神戸湊川神社は同氏を主祭神として祀っている神社となります。

もともとは神社ではなく同氏の墓だったのですが、長期間にわたって荒廃していたのを明治時代に入ってから神社として祀ろうと言う事で建立されました。

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楠木正成の生い立ち

楠木正成の生い立ちは1290年位のことで、現在の大阪府にあたる河内国赤坂水分で出生したとされていますが諸説あり、実際にはよく判っていないようです。

彼の活躍が有名になるのは1330年に入ってからで、太平記によりますと後醍醐天皇につかえた勤王の士として大きく貢献し、最期は殉死を遂げたと言う内容が残っています。

後醍醐天皇と言えば当時の鎌倉幕府を相手取り討幕運動を繰り広げていた人物です。

この運動は当初は失敗に終わって後醍醐天皇は流刑に処されてしまったこともありましたが、その時に活躍していたのが楠木正成でした。

彼は後醍醐天皇が流刑地である隠岐の島から脱出するまでの間、仲間と力を合わせて幕府と渡り合っていたと言うことになります。

その後に後醍醐天皇は流刑地を逃れて復帰を果たすと、楠木正成や足利尊氏の協力を得て鎌倉を攻め落とし、北条氏を滅亡させて建武新政を実施するに至りました。

しかし後の処理がうまく進まずに後醍醐天皇の部下は次々と離反していきますが、この中に足利尊氏が含まれていました。

足利尊氏と言えば後の室町幕府を起こし征夷大将軍となった人物です。

この足利尊氏の離反は政権にとって致命的と言え、一時は後醍醐天皇側も撃退に成功したものの、やがて勢力を持ち直した足利尊氏を抑えきることは出来ませんでした。

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湊川の戦と楠木正成

足利尊氏が後醍醐天皇を追い詰めるに至るまでで、大きなターニングポイントとなったのが1336年の湊川の戦いです。

この戦いは足利尊氏の勝利には終わったものの、楠木正成は700騎あまりの手勢を率いて猛然と戦い、足利直義の軍勢を退けた程の功績を残したとされます。

ただし直後に直義軍に変わる新たな軍勢を差し向けられてしまい、多勢に無勢という状況になってしまいました。

劣勢にも屈せずに最後まで奮戦を続けましたが手勢わずかとなったところで、正成と正季の兄弟は自害し、他の者も後に続いたと言う事です。

この功績は敗北した側と言う立場もあったのかと思いますが、あまり大きく取り上げられることはありませんでした。

見直され始めたのは1600年代の終わり頃のことで、学者らによってこの功績や勤王の士としての立ち振舞が評価され、水戸黄門として有名な徳川光圀が石碑を築いたのが1692年です。

その後には徳川慶勝が楠社創立が目指されることになり、明治元年には明治天皇がそれを承継する形で神社の建立に踏み切りました。

完成は明治5年のことでしたから、1336年から550年近く経っていたことになります。

湊川神社の社殿は八棟造りと呼ばれるもので、以前のものは繊細で消失してしまいましたが、昭和27年に再建されています。

また光圀公が建立した石碑は健在のようで今でも目にすることが可能です。

これには吉田松陰や坂本龍馬の他、西郷隆盛や初代内閣総理大臣になった伊藤博文も訪れ、この石碑の前で誓いを立てたと言われます。

神戸湊川神社の場所は兵庫県神戸市中央区多聞通三丁目で神戸地方裁判所の近くとなります。

お祭りや初詣などでは気軽に足を運べ、結婚式をあげることも可能となっているなど多くの人に愛されている神社です。

楠公まつりの楠木正行(くすのき まさつら)は、楠木正成の嫡男です。

湊川神社(楠公さん)公式ページ

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