九度山とは和歌山県北部に位置するところにある山です。
真田幸村、昌幸父子が徳川家康から命じられて蟄居していたところとして歴史的には有名です。
今では観光名所ともなっているところでもあります。
蟄居させられるようなところですから当時としては、あまり人がいないところだったのでしょう。
高野山への入口にあたるところでもあり、修業をする僧が訪れたりする場所です。
目次
真田幸村、昌幸の蟄居生活
ここで真田親子は再び世に出る機会を考えていたのでしょう。
幸村は大坂の陣で名をはせることになりますが、父の昌幸はここで亡くなっています。
ここでの生活はかなり苦しいものだったようです。
幸村はその窮状を兄の信之に書状で送っていて、お酒を送ってほしいなどということを訴えています。
敗者の立場ですから何も出来ることはなく、ただ兄の援助のみが頼みの心細い生活をしていたということになるのでしょう。
ここまでに至る真田親子の決断はとても苦しいものがあったのでしょう。
真田家は関ヶ原の戦いで敵味方に分かれる
関ヶ原の戦いで、親兄弟で別々の陣営に属するしかなかったことがそのことを物語っています。
兄の信幸は家康方に、父の昌幸と弟の幸村は豊臣方にということになって分かれて戦いました。
ここで豊臣方といっているのは三成方のことをいっています。
当時は豊臣秀吉が亡くなってその家臣であった徳川家康と石田三成が対立するということになっていました。
どちらも豊臣秀吉の家臣ですから、大名たちには家臣の内部闘争と考えられていたと思われます。
何故ならこの家康方に多くの豊臣恩顧の武将が加わっているからです。
いかに戦国時代が何でもありの時代だったとはいっても、秀吉の子飼いとまでいわれるような武将が数多く家康方に加わるのは不自然です。
これは家康も秀吉の家臣として認められていたということを物語っているのでしょう。秀吉の家臣の間で起こった権力争いが関ヶ原の戦いということになるのでしょう。
その戦に巻き込まれたのが、この真田一族というわけです。真田一族は関ヶ原の戦いには参加はしていませんが、関東の上田で家康の息子の秀忠軍が関ヶ原に向かうのを邪魔するということをしています。
これをしたのが幸村と昌幸です。昌幸は家康には数々の恨みがあるので、まず家康方になるという考えはなかったのでしょう。
幸村は人質として秀吉の下で育った時間があって、三成などの武将に近い存在となっていたということがあったのかもしれません。
勿論幸村のお嫁さんが西軍の大谷吉継の娘ということもあったのでしょう。
家康側に付いた兄の真田信之
一方で兄の信之は家康家臣の本多忠勝の娘を嫁にしていたので家康方についたと思われます。
上田での戦いは決着はつかなかったのですが、足止めを食った秀忠軍は関ヶ原の戦いに遅参するという大失態を演じることとなり、家康に激怒されるというようなことになりました。
ただ、これほどのことをしてのけた真田親子に対して家康は九度山に蟄居という処分にします。
これは、信之が必死で命乞いをしたため、この処分で済んだということになったともいわれていますが、家康としては恨み重なる真田親子を討つ絶好の機会だったのですが、それを逃したことが不思議でもあります。
確かに信之の命乞いはあるのでしょうが、家康はそれほど甘い武将ではありません。
何しろ自分の息子ですら殺害する命をだしているぐらいです。
それが九度山に蟄居というだけでそれ以上の処置をしなかったというのは不思議なところです。
実際に幸村は大坂の陣ではこの九度山を抜け出して家康に命の危機まで感じさせるほどの活躍をすることになるわけです。
九度山という場所はそれほど有名な流刑の場所というわけでもありませんから、なぜここに蟄居することになったのか不思議なところです。