大阪市淀川区の地名に付いている「十三」にまつわる歴史エピソードは江戸時代まで遡り、さらにいろいろな経緯を経て今の「十三」の地名になっているのです。
ところで、大阪を流れる有名な川といえば「淀川」ですが、明治初期までの淀川は下流部でいくつもの支流に分かれており、その支流のひとつに「中津川」という川が流れていました。
江戸時代には中津川南岸の成小路村と北岸の堀村を結ぶ「13」の渡し舟の航路が設置されており、大阪と尼崎・西宮をつなぐ中国街道の一部区間としての役割を担っていたのです。
やがて、成小路村は南岸の他の村々と合併して中津村となったのですが、その後新淀川の開削工事が始まり中津村を横断する形で開削工事が行われたため、一時期「十三」の名前・地名は消えて無くなりました。
十三駅~阪急電鉄
1910年に今の阪急宝塚線の「十三駅」が設置され、この駅名採用がきっかけとなって今まで消えていた「十三」の名前・名称が地名として復活する日がやって来たのです。
阪急のこの駅は、けっこう乗降客が多い駅で、街にはパチンコ屋・ホテルが密集しており、歓楽街として位置づけられることが多いのですが、一方で美味しい飲食店も多く、ネギ焼きの「やまもと」や「がんこ寿司」など関西では名の知れた人気店があります。
通勤に阪急電車を利用していた私は、いつかこの駅で降りて「ネギ焼き」と「がんこ寿司」を食べてみたいと思っていました。
そして、あるプレミアム・フライデーの仕事帰りに独りで十三駅に降り立ちました。
十三駅を出た瞬間から怪しいおじさんたちが近寄ってきます。
いい年した男が独りでこの駅に降り立ったということは、目的は言わずもがな自然と絞られるということなのでしょうか。
そのしつこい勧誘をなんとかかわしながらネギ焼きへと突き進んでいたところ、はっきりとは憶えていないのですが、「13人目」くらいでついに、客引きおじさんにつかまってしまったのです。
いや、正確にいうと「2000円ポッキリ」というその日最安値の言葉に引かれてしまったというのが事実です。
中をみると店内はほとんど真っ暗闇で、ところどころオレンジ色の小さな灯りが灯っているだけで、そこは一組ごとにパーテーションで仕切られていて、ひとつひとつのコーナーにそれぞれ客が入っているのだとわかりました。
なにしろカーテンで完全に仕切られているので中で何が行われているのかまったくわかりません。
ただ、男性と女性が話をしている声や笑い声などは漏れ聞こえてきます。
そして、私もその中の一角に通されました。座ってしばらくすると、一人の女性がビールとつまみをお盆にのせて入って来ました。
そして座るなりいきなり私の手を触ってきたのですが、なんとその手が乾燥していてガザガザだったので、「あれっ」と思って目を凝らして凝視すると青い血管が数本浮き出たシワくちゃな手だったのです。
そのうち「加齢臭」というか「田舎のおばあちゃんのタンスの臭い」までしてきました。
十三の飲み屋
その女性は顔は見えませんがおそらく60代から70代の超シニアホステスであったと思われます。
私は逃げ出したい気持ちでいっぱいになりましたが、なぜか他の客は楽しそうに過ごしているのが不思議でした。
私はいやいやながらそのシニアホステスと会話を始めたのですが、どうしても嫌で一刻も早くこの場を立ち去りたい一心で落ち着いていられません。あのポン引きおじさんを滅茶苦茶恨みました。
早くその店から出たかった私は、文句も言わずに2000円を払って逃げるように店を出て一心不乱に走り続けました。
もうネギ焼きや寿司を食べる元気は無くなっていたのか、走り着いた先は十三駅でした。
ホームに立って帰りの電車を待っている間、「今日はとんでもない日になってしまった、でも自業自得だ」と自己嫌悪に陥り、「今日は何日だっけ?」と考えたら「十三」日の金曜日でしたw。