大融寺はJR大阪駅から徒歩15位でアクセスの良い商業地域にある寺です。
西暦821年創建という古いお寺で弘法大師・空海により開かれた高野山真言宗のお寺です。
このお寺は「淀殿(淀の方)」のお墓がある事で知られています。
淀殿と言えば豊臣秀吉の側室であり秀吉の死後、実子である豊臣秀頼の母として豊臣政権の中心となり徳川家康と対抗した事で知られています。
母は織田信長の妹で当時、随一の美女と言われた、お市の方で父は勇将として知られた浅井長政でした。
お市の方は浅井長政に嫁ぎ三人の女の子を授かりましたが、これが有名な浅井三姉妹です。
浅井三姉妹は茶々、はつ、江という名前で次女のはつは後に京極高次に嫁ぎ三女の江は最初は佐治一成、次に豊臣秀勝に嫁ぎ、秀勝の死後、徳川秀忠に嫁いだ事で有名です。
浅井三姉妹は戦国時代という熾烈な時代に生まれ、それぞれの人生を歩みましたが長女である茶々の人生は戦国時代という一つの歴史の終焉を告げる大阪夏の陣で悲劇的な最期を迎えた、という事もあり最もよく知られています。
父である浅井長政は北近江の大名で勇猛果敢な知将として知られた人物でした。
近江という場所は織田信長の領地である尾張から見ると京都へ向かう道筋に当たり非常に厄介な存在でしたが信長でさえ闘うのを躊躇したほどの人で信長はお市の方を嫁がせ浅井家と同盟関係を結びました。
この時、浅井長政は条件を付けました。
それは「隣国の朝倉家とは長年の同盟関係なので決して攻めない事」という物で信長はこれを受諾しました。
いわば政略結婚ですが浅井長政とお市の方は非常に仲の良い夫婦であったそうです。
大融寺と淀の方(茶々)
そして茶々、はつ、江という三人の女の子を授かる事になりました。
しかし、この同盟関係は当時の朝倉家の当主、朝倉義景により徐々に揺らいできます。
信長は朝倉義景に京都に来て将軍・足利義昭に挨拶をするよう何度も促しましたが朝倉義景はそれに応えませんでした。
足利義昭は信長の後ろ盾で将軍になった傀儡将軍であり足利義昭に挨拶をする事は信長に従う事と同義だったのです。
しかし朝倉義景が応じなかったのは信長に対する対抗心という物も有ったようですが実は政務を一族の朝倉景鏡・景健に任せ、自らは遊興に耽っていた事が主な理由とも言われています。
業を煮やした信長は朝倉攻めを決めましたが浅井家との約束があります。
しかし浅井長政は同盟を裏切らないと信長は信じました。そして出陣した信長にお市の方から「袋の両端を縛った小豆の袋」が送られてきました。
これは「前門の虎、後門の狼」という意味で信長に浅井長政は朝倉家との同盟を守るつもりだと、という事を知らせた物と言われています。
浅井側からすると約束を破ったのは信長の方であるから当然の事だったようです。
信長は急ぎ陣を引き払い京都に戻ろうとしましたが浅井・朝倉連合軍は追撃をかけて来ました。
「しんがり」を引き受けた木下藤吉郎(豊臣秀吉)の奮戦で何とか京都に戻る事が出来たとの事です。
そして姉川の合戦で信長は浅井・朝倉連合軍を打ち破り浅井家は滅亡しました。
お市の方は三姉妹とともに生き残り、後に柴田勝家に嫁ぎますが柴田勝家も秀吉との戦いに敗れ討ち死にしました。
この時、お市の方は勝家と最後を共にしています。
そして豊臣秀吉が天下人となり浅井三姉妹は秀吉の庇護下で成長します。
長女の茶々は秀吉の側室となり後に豊臣秀頼となる男の子を授かりました。そして秀吉の死後、秀頼を支え次を狙う徳川家康と対抗する事になります。
しかし百戦錬磨の家康には敵わず大阪冬の陣、夏の陣を経てついに秀頼と共に大阪城内で自刃せざるを得なくなりました。
浅井長政、柴田勝家という二人の父と母を合戦で亡くし秀吉の死後は自ら家康と戦わざるを得なくなった淀殿の人生は何と壮絶な物であった事でしょうか。
その淀殿、茶々姫は現在は大融寺で静かに眠っています。